なぜ馬謖は諸葛亮の命令を守れなかったのです

Writer: admin Type: jracademy Date: 2019-01-09 00:00
なぜ馬謖は諸葛亮の命令を守れなかったのですか?共感した0###諸葛亮の言った山の麓に布陣しろはどうも後付けで正史には記録が残っていない。王平は麓に布陣しただけで。馬謖のまず本当の役割を考えましょう。馬謖はいわば敵を出来るだけ多く惹きつけるというのが当初の目的です。出来るだけ惹きつけて諸葛亮と趙雲の別働隊が長安一帯をその間に制圧するといった作戦。なので山頂に登ったわけです。相手方の張郃はこれを警戒して徐々に行軍。このため諸葛亮側の別働隊は攻められず。もう一つの趙雲の部隊があっさりと曹真の軍勢よりも遥かに上回る軍なのに敗走。まあそもそも諸葛亮の軍勢で長安を抜けるとは思わないし、一番問題なのは趙雲だけど。山の麓に布陣しても長安固められるだけだし、魏延の策なら長安を取れたとは思うけど。これ馬謖だけが悪いとは思わないけど、絶好のチャンスで魏延策ならみたいな声の諸葛亮の面子と趙雲の失態は大きいけど自分よりも古参だし言い訳すごいし、馬謖に責任を全て押し付けただけだと思いますね。ナイス0
###kan********さんの意見に補足ですが、この時の諸葛亮は天水・南安・安定の西方に位置する隴西を降伏させるため時間を要していました。魏の張コウが向かってきているのも、三郡が降伏したことにより、関中軍と寸断されている西方諸郡の救援が目的です。魏の游楚も後1ヶ月も孤立していたら降伏するしかなかった、と言ってるぐらいです。魏も時間的猶予はあまり残されていなかった。蜀にとっては街亭での勝敗は重要でなく、単に西方諸郡を降伏させるまでの時間稼ぎさえしてくれれば良かった。ですが、これが実質指揮官として初陣の馬謖として(しかも才能がある、と自負している)それで納得するでしょうか。仮に隴西を取ったとしても、街亭を馬鹿正直に守れば、せっかくの初陣が敗北となることは必至です。馬謖にしてみれば、魏軍を撃退できれば結果は同じで、しかも自分は戦果を挙げることになる訳です。禁断の誘惑が頭を擡げたのではないでしょうか。実際上にもあるように魏軍は先を急ぐ必要があったのは確かです。もし街道を空けておけば、先を急ぐ魏は自分たちを見過ごして更に進軍したかもしれない。そこを後ろから急襲する。と言う図式が馬謖の頭になかったとは言えないでしょうね。並の武将なら馬謖の意図通りの動きをしたかもしれません。が相手の張コウは魏でも五指に入る名将であり、地形を利用した戦い、孫子の兵法にも習熟しているほどの武将です。馬謖が山に布陣していることの情報をきちんと得て、その意図そしてその弱点を正確に見抜き、その上でいったん足を止めることと先を急ぐことのリスクを天秤にかけ、包囲戦を行っている。水も漏らさぬ戦い方と言っていいでしょう。馬謖のやや甘めの見通しでは相手にならなかった。少なくとも実戦の場での経験値は大人と赤ん坊ぐらいの差があったと言えるでしょうね。ナイス3
###まあはっきり言及されていないので詳細は分からないんですが、馬謖は諸葛亮の命令を守れなかったのではなく、「守らなかった」のだと考えています。馬謖は街亭に布陣する際、王平が止めるのも聞かずに小高い山の上に布陣しています。馬謖と王平は正副の将軍ですから2人は同じ命令で動いていたはずなんです。にも関わらず王平は街道沿いに布陣し馬謖は王平の制止を振り切って山上を選んだ。それはつまり、諸葛亮の命令(少なくともそのひとつ)が「街道沿いに布陣せよ」だったことを示しています。ではなぜ馬謖は諸葛亮の命令に反して山上を選んだのか。それはおそらく「張郃を討ち取るため」です。それまで主軍を率いた事のない馬謖が第一次北伐のキーポイントとなる街亭の守りに起用されたのは大抜擢ということになるわけですが、考えてみればそう不思議な事でもありません。諸葛亮は南征などで馬謖を手元に置いてじっくり見定めてから街亭に起用していますし、馬謖は当時38歳で、当時の平均寿命を考えてもベテランの域に差し掛かっている年齢になります。つまり馬謖は能力と地位があって実績だけがなかったのです。ならば実績を上げさせるために要所に起用するのは当然の事と思います。そして、馬謖に与えられた命令はおそらく「張郃を足止めせよ」です。これなら街道沿いへの布陣とも齟齬がありませんし、涼州の入り口となる街亭で張郃の軍(つまり魏の本軍)を足止めできれば涼州を丸ごと刈り取る事だって可能になります。先行回答者さんはこの隙に諸葛亮が長安を狙うと言ってますが、方角をお間違えです。東から長安、張郃、馬謖、諸葛亮(涼州)と位置しているので馬謖の軍は涼州攻略に向かう諸葛亮の本軍を張郃の軍から守るために配置されていたわけです。で、馬謖は張郃の足止めのみならず張郃を討ち取ろうと考えたのではないかと思うわけです。山上に布陣するのは「決戦(勝敗を決める戦い)」において有利となる布陣です。矢の射程も長くなるし駆け下りる勢いがそのまま軍勢の勢いになります。街道沿いの平野部に布陣すると純粋な力勝負になりやすく、兵力が拮抗していればそのまま「持久戦」、つまり手の内の読み合いになりがちです。つまり馬謖は張郃の足止めのみならずその首を狙ったと言えるのです。要するに、命令された以上の戦果を挙げようと試みた、と考えられるわけです。山上に布陣した馬謖の命令は煩雑をきわめたと伝わっていますが、確実に戦果を挙げるために緻密な戦術コントロールが必要になったと考えればこれも決戦説を裏付ける傍証になり得ます。つまり馬謖の敗戦は「命令以上の成果を出そうとした馬謖の勇み足」と言えると思います。もともと戦場にあっては主命も受けずと言われるように、状況に応じた臨機応変さが求められるものであり、成功すれば多少の命令違反は不問にされるものですから馬謖の判断(独断)は分からなくもありませんが、失敗すれば当然その責任を取らねばなりません。馬謖はその責任を放棄して捕縛後に逃走を計ったために死罪となりました。趙雲と諸葛亮の責任を押し付けられて処刑された訳ではありません。そもそも趙雲が担当した斜谷道も街亭の西側にあります。つまり馬謖が戦線を維持できていたならば、趙雲も曹真の大軍に遭遇せずに済んだ可能性が高いのです。ナイス3
###守らなかったわけではなく、指示通り説があるんです。そもそもその権限がないはずで、しかも本来なら孤立するはずなかった?指示を守らなかったことにすれば収まりが良いわけで…。才能を惜しんで泣いたわくじゃなく、責任を押し付けちゃったから泣いた説もあるらしい。ソースは忘れちゃったのですが、たぶん、約束は守ったが正解なのかな~?ナイス0

 

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